妻は、特に気にした様子もなく、いつも通り朝食をつくっていました。
考えてみれば、私は昔から、何かを考え始めると、周りへの反応が薄くなるところがあります。
「お父さん、人の話、聞いてないよね」
娘にも、よく呆れられたものです。
そう思ったら、なんだか笑えてきました。
人はよく、「自分らしさ」というと、特別な場面に表れるものだと思いがちです。
大きな決断をしたとき
仕事で力を発揮したとき
何かに夢中になっているとき
などに「自分」が出ると思ってしまいます。
でも、案外そうではないのかもしれません。
朝の洗い物のような、何でもない時間にこそ、顔を出すのではないでしょうか。
「自分らしさは、特別な場面より、朝の洗い物に出る」ということだと思うのです。
では、この「無愛想さ」は、直したほうがいいのでしょうか。
もちろん、人を不快にさせるなら、気をつけたほうがいい。
でも・・・
そもそも、なぜ私は返事もしないほど、考え事に入り込んでいたのだろう。
考えることに夢中になると、外から入ってくるものが遠くなる。
周りのことより、頭の中で動いている問いに意識が向く。
それは、本当に欠点なのだろうか。
私は二十年間、企業の研究者として仕事をしていました。
研究という仕事は、一つの問いを長い時間考え続けます。
「なぜ、この反応だけうまくいかないのか」
「このデータは何を意味しているのか」
「別の方法なら、どうなるのか」
昼も夜も、週末も、それこそ寝ている時以外は、ほとんど研究のことを考えていました。
その間、ずっと無愛想だったのです。
でも、もしあの頃の私が、周りのことを気にして愛想を振りまいたり、感情を表現したりして、
そのたびに頭の中の問いから離れていたとしたら、あれほど多くのアイデアを出せただろうか。
東洋の五行論では、水は「知性」、火は「感性」を表します。
火が温かさなら、水には冷たさがあります。
そして、火が強すぎれば、水は蒸発してしまいます。
感情が強くなりすぎると、落ち着いて考える力が失われてしまう。
だからこそ、知性には、ある種の「冷たさ」が必要なのだと思います。
水のような冷たさがあるからこそ、感情から少し距離を置き、ものを見ることができる。
一つの問いを、深く考え続けることもできる。
「知の才能には、冷たさがいる」ということなのです。
もちろん、だから無愛想でいい、という話ではありません。
ただ、自分の欠点らしいものを見つけたとき、
「これは直さなければ」と、すぐに切り取ろうとするのは、少し待ったほうがいいのかもしれません。
人の性質は、長所と短所にきれいに分かれているわけではないと思います。
同じものが、ある場面では欠点に見え、別の場面では才能として働く。
だから、欠点だけを切り取ることはできない。
同じタネから、才能も生えているから。
朝の洗い物をしながら、そんなことを考えました。